アリとキリギリスの寓話は、私が小学生の時に習った内容では、アリは越冬のために働き通し、キリギリスは歌ってばかりいた。冬になり困ったキリギリスはアリに助けを求め、アリから食べ物を分けてもらい改心するという展開である。
当時の教育としては、真面目に働くことの大切さや、将来のことを考えて努力することの大切さを伝える目的だったと思う。
だがしかし、私は大人になり、社会にもまれ、感じたことがある。
結局は、キリギリスの生き方をする人が、ズル賢く楽に生きているのではないか。
私がよくみるキリギリスは、アリの優しさには気づいていないし、改心もしていない。
それどころか、キリギリスはアリの生き方を否定するかの様だ。
そしてキリギリスは、アリを踏み台にしてのしあがる。
こんなんじゃ、アリでもないキリギリスでもない生き方がしたくなる。
この寓話には、いくつかバリエーションがあって、アリはキリギリスに冷たく、突き放し、キリギリスは死んでしまうという結末。
この不平等な世の中で、どこかでこんな平等を望む自分がいる。
アリとキリギリスの寓話は、子どもの頃に学んだ教訓と、大人になって経験する現実との間に、興味深いギャップを感じさせる物語です。私が挙げた現実社会の視点は、共感を呼ぶものがあるのではないだろうか。
昔ながらの寓話では、アリのように勤勉で計画的に生きることが「正しい生き方」とされ、キリギリスは反面教師のように描かれます。しかし、実際の社会では、キリギリス的な生き方をする人が時に成功し、アリ的な努力が報われないことも少なくありません。この矛盾は多くの人が感じる不満や葛藤そのものです。
現代の視点では、この寓話を次のように再解釈することもできるかもしれません
- アリとキリギリスの協力関係
キリギリスの歌(芸術)は社会の癒しや楽しみを生み出し、アリの努力は基盤を支える。お互いの役割を認め、補完し合うというポジティブな関係を描けるかもしれません。 - 公平さへの問いかけ
あなたが感じる「アリを踏み台にするキリギリス」の構図は、社会の不平等を象徴しているように思います。この寓話を社会批判として読み解くことで、新たな教訓が浮かび上がる。 - アリでもキリギリスでもない第三の選択肢
アリの勤勉さとキリギリスの自由さ、その両方をバランスよく取り入れる「新しい生き方」を模索する寓話も考えられるのではないでしょうか。この視点は、今の多様性を重んじる社会にぴったり合う。
寓話を子どもに伝える際には「努力の大切さ」が強調されることが多いですが、大人として改めて考えると、この物語が内包する複雑さや矛盾は、社会の縮図そのものである。
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